2011年11月5日土曜日

Ray Charles(レイ・チャールズ)"What'd I Say"



Ray Charles(レイ・チャールズ)の「What'd I Say」です。

Ray Charles Robinson(レイ・チャールズ・ロビンソン、1930年9月23日~2004年6月10日)はアメリカ合衆国・ジョージア州出身のR&B(リズム・アンド・ブルース)の歌手であり、ピアニストです。

RAY CHARLESはご存知のように、盲目というハンディを背負いながらも、リズム・アンド・ブルースや、ゴスペル(黒人霊歌)やジャズなど、黒人である自らのルーツを辿るような音楽活動の中で、自分の魂を歌うという「ソウルミュージック」の形を自ら実証し、世界中の音楽ファンから「ソウルの神様」と呼ばれるほどのカリスマとなりました。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第2位にランクされています。

ちなみに1位はこのブログでも紹介した、ソウル歌手のAretha Franklin(アレサ・フランクリン)です。

RAY CHARLESは幼少時に緑内障のために失明しましたが、目が見えないというハンディを背負いながらもピアノを学び、盲学校に通いました。

その後1947年にシアトルに移り、この頃クインシー・ジョーンズと出会うこととなります。

初期の頃はレイ・ロビンソンの名で活動しましたが、後に同名のボクサーがいる為、ミドルネームのレイ・チャールズに改名しました。

自己バンドでツアーを行っているうちに、アトランティック・レコードより声を掛けられ契約し、1959年に出したこの「ホワッド・アイ・ セイ」が自身初のミリオンセラーとなりました。

ソウル歌手としての人気を高める一方で、ゴスペルを大胆にアレンジしていたことから、敬虔なクリスチャンからは非難されたりもしました。

1959年にアトランティックとの契約切れを期にABCレコードと契約し、1961年に代表曲の一つとなる「わが心のジョージア」を発表し、これもミリオンセラーを記録しました。

1989年には、日本でもサザンオールスターズの「いとしのエリー」をカヴァーしたことで話題になり、日本でもヒットを記録することとなりました。

2004年にはテイラー・ハックフォード監督の伝記映画『Ray/レイ』が公開され、彼を演じたジェイミー・フォックスはアカデミー主演男優賞を受賞し、また音楽部門では同時にアカデミー音響賞を受賞しました。

この映画は私も見ましたが、ジェイミー・フォックスのRay Charles本人かと思うような並外れた演技力で、素晴らしい作品となっていますので、機会があれば見ることをお勧めします。

しかし、2004年6月10日に肝臓がんで死去(73歳)し、本人は完成された映画を見ることはできませんでした。

まあ、いつも言うことですが、「ダンス」の大前提は、ごく特殊な場合を除いては「音に合わせて踊る」ということですので、音楽が理解できないとボールルームダンスも単なる体操になってしまいます。

その音楽を理解するには、音楽に触れることが第一ですので、いろいろな機会を捉えて音楽に親しむようにしてください。

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2011年10月23日日曜日

Aniceto Molina(アニセト・モリーナ) - Cumbia Cienaguera



Aniceto Molina(アニセト・モリーナ)の 「Cumbia Cienaguera」です。

曲の題名にもあるとおり、Cumbia(クンビア)というラテン音楽で、サルサ同様に男女で踊るダンス音楽でもあります。

Aniceto Molinaはコロンビア生まれで、12歳からアコーディオンを始め、アメリカ全土やカナダでツアーを行い、メキシコにも10年近く在住しています。

そのメキシコ滞在期間中には相当数な国内ツアーを行いブレークしました。

Cumbia(クンビア)は、南米コロンビアのカルタヘナ・デ・インディアス発祥のラテン音楽のひとつです。

パーカッション主体の4分の2拍子が最大の特徴で、現在ではラテンアメリカ諸国(スペイン語圏)で広く聞かれるます。

由来は諸説ありますが、発祥は19世紀に黒人奴隷がもたらしたパーカッション文化とインディオのフォルクローレのメロディラインが融合、語源は西アフリカのギニアにあるクンベという地名に由来するとの説が有力であるということです。

リズム体は複数のパーカッションで構成(ティンバレス、コンガ、ボンゴ、ギロなど)され、ドラムはほとんど使用されません。

メロディラインはアコーディオン、シンセサイザー、ホーンセクションのいずれかで構成されることが多く、稀にエレキギターやピアノも使われますが、ペルーではケーナが多用されます。

同じくラテンアメリカで広く聞かれるサルサに対し、上流・中流階級から好まれないものの、庶民の根強い人気を誇る音楽です。

1965年には世界と同様に日本でもレコード会社日本コロムビアの主導で瞬間的なクンビア・ブームが起き、弘田三枝子が1965年にEP「恋のクンビア」をリリースし、同年の「NHK紅白歌合戦」出場曲となりました。

リズムはインターナショナルで踊られるサンバ同様の4分の2拍子ですので、クンビアに慣れるとサンバも理解できるということになります。

とにかく、音楽は理論理屈を理解するよりも「慣れる」ということが重要ですので、耳慣れないジャンルや曲も何度も聞いて「慣れる」ことが必要です。

曲が「身体に入る」というところまでいかないと音楽に乗って踊ることはできません。

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2011年10月9日日曜日

James Brown(ジェームズ・ブラウン) - I Feel Good



James Brownの「I Feel Good」です。

James BrownことJames Joseph Brown, Jr.(ジェイムズ・ジョセフ・ブラウン・ジュニア, 1933年5月3日 - 2006年12月25日)は、アメリカ合衆国のソウルミュージックシンガー・音楽プロデューサーであり、通称は「JB」です。

Funk(ファンク)の帝王と呼ばれ、シャウトを用いた歌唱法が特徴の、日本でも非常に人気があるミュージシャンです。

Funk は、アフリカ系アメリカ人(黒人)起源のソウル・ミュージックの音楽ジャンルのひとつです。

Funky(ファンキー)と言う言葉はそもそも「野暮ったい」「土俗的」などの意を含む俗語ですが、元々はファンク・ミュージックが派生する以前にジャズ(ファンキー・ジャズ)に対して使われていた言葉で、ブルース色(土臭さ)、ソウル色(ゴスペル)を指した意味がありました。

このように「Funky」という言葉には黒人の生活的な土臭さを持つ面があるわけです。

James Brownの父はアパッチ族インディアンで、母はアフリカ系黒人アメリカ人と、アジア人の系統であり、また、「母方の祖父は日系人である」とテレビ番組で本人が語ったという話もあります。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」に於いて第10位にランクされています。

James Brownはすばらしいセンスとエネルギーを持つミュージシャンで、幼い頃のMichael Jackson(マイケル・ジャクソン)がステージの端から彼の驚異的なステップの数々を見て学んだという話があり、Michael Jacksonの観客を巻き込むノウハウもJames Brownの影響によるところが大きいという話もあります。

James Brownすばらしいリズム感とダンスセンスを持つダンサーでもあるわけですが、その並外れたエネルギーのせいか、私生活ではトラブルの連続で、逮捕歴も何度もあり、さらに実刑判決を何度も受け服役もしています。

日本でも1992年に日清食品のカップヌードルMISOのCMキャラクターjとして起用され話題となり、ソウルファン以外にもその存在を広く認知させることになりました。

James Brownは2006年12月24日、歯科医を訪れたさい、そこで肺炎の症状が判明し、ジョージア州アトランタのエモリー・クローフォード・ロング病院に入院しましたが、翌日の午前1時45分、ツアー予定を残したまま、73歳で死去しました。

死因はうっ血性の心不全という発表でありましたが、その死去はCNNやBBCなど世界中のメディアでトップニュースとして報じられました。

この時、ブラウンの治療に当たっていた医師のコンラッド・マーレーは、現在、マイケル・ジャクソンの死因を巡り、過失致死傷罪として正式に裁判するかの予備尋問を行っている話題の医師です。

この「I Feel Good」はJames Brownの代表曲のひとつで、リズムが大変はっきりとしてカウントを取りやすい演奏ですので、1,2,3,4を意識しながら聞いてください。

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2011年7月13日水曜日

Louis Armstrong(ルイ・アームストロング) - Kiss of Fire (El Choclo) - Tango



Louis Armstrong(ルイ・アームストロング)の名曲「What a wonderful world」です。

Louis Armstrong(ルイ・アームストロング、1901年8月4日-1971年7月6日)は、アフリカ系アメリカ人のジャズミュージシャンで、Satchmo(サッチモ)という愛称でも知られ、ご存知のように日本でも大変人気のある、20世紀を代表するミュージシャンの一人です。

サッチモという愛称は「satchel mouth(がま口のような口)」というのをイギリス人記者が聞き違えたとする説や、「Such a mouth!」(なんて口だ!)から来たとする説などがあります。

ルイ・アームストロングは明るく陽気な音楽性と高い音楽的技術をあわせ持つカリスマ的かつ独創的な演奏者で、洗練されていない地方的なダンスミュージックをポピュラーな音楽形態である「ジャズ」へと発展させました。

トランペット奏者であるとともに歌手としても有名ですが、とくにトランペット奏者としてはジャズ界でも稀であるほどの天才と言われ、アメリカ合衆国のトランペット奏者、作曲家で現代において最も著名なジャズ・ミュージシャンの一人であるWynton Learson Marsalis(ウィントン・マルサリス、1961年10月18日 - )が「色々なトランペット奏者の良い所を盗もうとしたけど、アームストロングだけは盗めなかった。とにかく凄すぎるからさ」と賞賛したほどです。

歌の方でも「スキャット」という歌唱法を広めたことで知られています。

さらに、モダンジャズの帝王と呼ばれジャズ界の超大物トランペット奏者であったMiles Davis(マイルス・デイヴィス、Miles Dewey Davis III、マイルス・デューイ・デイヴィス三世、1926年5月26日 - 1991年9月28日)は「アームストロングは喋りまでジャズになっている」と語っているそうです。

ルイ・アームストロングは、ニューオーリンズのアフリカ系アメリカ人が多く住む比較的貧しい居住区で生まれ育ちました。

子供の頃に祭りで浮かれ、ピストルを発砲して少年院に送られましたが、その少年院のブラスバンドでコルネットを演奏することになったのが、楽器との最初の出会いとなり、その後、町のパレードなどで演奏するようになり人気者となりました。

1923年、シカゴに移りジャズのコルネット奏者でバンドリーダーであるKing Oliver(ジョー・“キング”・オリヴァー、Joe "King" Oliver、1885年12月19日~1938年4月10日)の楽団に加入し、同年、初のレコーディングを行いメジャーデビューとなりました。

その後1950年代には「バラ色の人生」や「Kiss of Fire」等が大ヒットし、また、1953年には初の日本公演を行いました。

1960年代には時代がThe Beatles(ビートルズ)を代表とするポップ・ミュージック一色となる中でも、Armstrongの「Hello, Dolly!(ハロー・ドーリー)」はミリオン・セラーとなり、彼の音楽がいかに多くのアメリカ国民を魅了していたかがわかります。

1967年には、この「What a Wonderful World(この素晴らしき世界)」が世界的なメガヒットとなり、後年、日本でもテレビCMに使われたのをご記憶の方もおられると思います。



この「Kiss of Fire」の原曲である「El choclo(エル・クチュロ)」は1903年にアルゼンチンの作曲家、ギタリストでタンゴの創始者といわれるÁngel Villoldo(アンヘル・ビジョルド)により作曲されたとされ、1905年11月3日にブエノスアイレスの高級レストラン「レストラン・アメリカ」にて初演されました。

この曲の歌詞については、アンヘル・ビジョルド自身も歌詞をつけていますが、一番よく聴かれるのは、1946年にアルゼンチンのタンゴの作詞家、作曲家で舞台俳優でもあったEnrique Santos Discépolo(エンリケ・サントス・ディセポロ)によって作られた歌詞です。

このエンリケ・サントス・ディセポロの歌詞は、メキシコの喜劇映画「グラン・カジノ」のために、この映画に出演する有名なアルゼンチンのタンゴ歌手であり、女優でもあるLibertad Lamarque(リベルタ・ラマルケ 1908年11月24日 - 2000年12月12日)の申し出により、急遽作られたそうです。

「El choclo(エル・チョクロ)」とはスペイン語で「とうもろこし」という意味だそうです。

この曲は、世界中の様々なタンゴの楽団によって、いろいろな解釈のもとに歌詞なしの演奏なども広く行われており、タンゴの中でも非常に知名度の高い有名な曲です。

アメリカではこのルイ・アームストロングやジョージア・ギプス、トニー・マーティン、フランキー・レイン、などにより、「Kiss of Fire」としてスペイン語版とは別の英語歌詞で歌われています。

この曲は4拍子のゆっくりとしたテンポで、カウントを取りやすい曲ですので、確実に1,2,3,4を取りながら聞いてください。

普段の日常生活で音楽や歌を聞くときは、必ずカウントを取って聞く習慣をつけて聞くことが体に音を流す訓練となります。

音楽に慣れてくれば、意識しなくてもなんとなくカウントがわかるようになりますので、たくさんの曲を聴くことが必要です。

この「意識しなくてもなんとなくわかるようになる」ということが感性を育てるということでもあります。

それがあなたの内部の音楽風景ということになります。

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2011年7月10日日曜日

Count Basie(カウント・ベイシー)-Shiny Stockings



Count Basie(カウント・ベイシー)とそのOrchestraよるShiny Stockingsです。

William "Count" Basie(ウィリアム・“カウント”・ベイシー、1904年8月21日 - 1984年4月26日)は、アメリカのジャズピアノニストでありビッグバンドのバンドリーダーです。

Count Basieは、Glenn Miller(グレン・ミラー)、Benny Goodman(ベニー・グッドマン)、Duke Ellington(デューク・エリントン)等と共にスウィングジャズ、ビッグバンドの代表奏者に挙げられるジャズミュージシャンです。

スウィング・ジャズは、1930年代から1940年代初めにかけて大流行した、白人が主体となって作られた大人数編成のビッグバンドによるジャズの形態の一つです。

黒人ブラスバンドやマーチングバンドと呼ばれるものとは音楽的には直接の関係はないとされますが、いずれにしても吹奏楽器によるブラスバンドから発展したといわれている大人数のジャズ、ビッグバンドの形態の一つです。

スウィング・ジャズはジャズの歴史の中では初期のものにあたり、「スウィング」のリズムを含んだ軽快なダンスミュージックであり、ジャズの特徴である即興演奏(アドリブ)や個人演奏(ソロ)よりも、念入りな打ち合わせに基づくビッグバンド全体での演奏(アンサンブル)に重点が置かれた演奏法です。

スウィングとはシャッフルとも称され、音楽におけるリズムの有り様の一種です。

ふたつの連続した音符のうち、初めの音符の長さを長めにとり、ふたつめの音符を短くする演奏形態です。

ジャズにおいて用いられるリズムであり、ブルースなどジャズの影響を受けた音楽においても用いられ、バウンスともいいます。

このスウィングジャズはいろいろな曲がさまざまにアレンジされてSlowfoxtrotやQuickstepの曲としてかかりますので、なんども聞いて曲の特徴をイメージにインプットしてください。

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2011年7月6日水曜日

Cab Calloway(キャブ・キャロウェイ)ーMinnie The Moocher (Live 1988)



Cab Calloway(キャブ・キャロウェイ)の「Minnie The Moocher(ミニー・ザ・ムーチャ)」です。

Cab Calloway(キャブ・キャロウェイ, 1907年12月25日 - 1994年11月18日) は、アフリカ系アメリカ人のジャズ・シンガー、バンドリーダーです。

彼のビッグバンドは1930年代初頭から1940年代後半にかけて、アフリカ系アメリカ人のバンドとしてはアメリカ最大級の人気を博しました。

Cab Callowayのネルギッシュなスキャット唱法と独特なダンスは後の米ジャズ界にとどまらず、世界の音楽界に大きな影響を与えました。

スキャット (Scat)とは、意味のない音(例えば「ダバダバ」「ドゥビドゥビ」といったような)をメロディーにあわせて即興的(アドリブ)に歌う、主にジャズで使われる歌唱法です。

彼のバンドはトランペットには超大物のディジー・ガレスピーやドク・チータム、サクソフォンにベン・ウェブスター、レオン"チュ"ベリー、ギターにはニューオーリンズの名ギタリストであるダニー・バーカー、ベースにはミルト・ヒントンらといったの米ジャズ界を代表する大物を擁していました。

このMinnie The Moocherは、1931年にレコーディングされたCab Callowayの最も有名な曲です。

この曲はベティ・ブープの短編アニメ「Minnie the Moocher」で使用され、ロトスコープの技術によって、キャブは声の出演にとどまらず、アニメの中で彼のダンスも披露しています。

この曲をScatも含めてCab Callowayが自在にアドリブでテンポを変えて歌っているように聞こえますが、その背景にはしっかりとしたリズムがあることを理解してください。

たとえばジャムセッションなどで、コード分解をして自由に演奏しているように聞こえても、その生命線には宇宙の法則である時間としての「リズム」があるわけです。

また、この「Minnie the Moocher」は、アレンジされてSlowfoxtrotの曲としても使われることがあります。

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2011年7月2日土曜日

Astrud Gilberto(アストラッド・ジルベルト) & Jobim Orchestra - Girl from Ipanema



Bossa Nova(ボサノヴァ)の女王 Astrud Gilberto(アストラッド・ジルベルト)の Girl from Ipanema(イパネマの娘)です。

Astrud Gilberto(アストラッド・ジルベルト、1940年3月29日 - )は、ブラジル出身の、ボサノヴァ・ジャズ、ポピュラー音楽の歌手です。

ボサノヴァ(Bossa Nova)は、ブラジル音楽のジャンルのひとつです。

ボサノヴァがアメリカで大ヒットしたためジャズの一種と見るなどさまざまな見方もありますが、ボサノヴァのルーツがサンバからの派生であることから、少なくとも本来のボサノヴァはサンバの一種であるとする見方が正しいと思います。

アストラッド・ジルベルトは、ブラジルのバイーア州に、アストラッド・エヴァンジェリーナ・ワイナート(Astrud Evangelina Weinert)として、ブラジル人の母とドイツ人の父親の間に生まれ、リオ・デ・ジャネイロで育ちました。

1959年にJoão Gilberto(ジョアン・ジルベルト)と結婚し、1963年にアメリカ合衆国に移住し、アルバム「ゲッツ/ジルベルト(Getz/Gilberto)」でジョアン・ジルベルト、スタン・ゲッツ、アントニオ・カルロス・ジョビンと共演したときに、彼女の歌声にプロデューサーのクリード・テイラーが目をつけ、彼女が英語で歌う「イパネマの娘」がレコーディング化され、これがアメリカを中心に大ヒットし、日本でも人気となり、世界的にもBossa Novaを認知させることとなりました。

João Gilberto(ジョアン・ジルベルト)はブラジルの歌手、ギタリストで、作曲家のアントニオ・カルロス・ジョビンや作詞家のヴィニシウス・ヂ・モライスらとともに、ボサノヴァを創成したとされています。

しかし、ジョアンとアストラッドは1960年代の半ばに離婚してしまいました。

アストラッド・ジルベルトは Girl from Ipanema(イパネマの娘)の大成功により、一躍ジャズスターとなり、ブラジルのボサノヴァと、アメリカのジャズ・スタンダードの架け橋的な役割を果たしました。

日本も含めて世界的に彼女はボサノヴァの代表的な歌手という評価の一方で、ブラジル国内ではほとんど実績を残していないため、ブラジル国内における評価はあまり高くないとう意見もあります。

ボサノヴァは4分の4拍子で、複雑なタッタチッタチチッタチチチタというようなリズムがドラムスやブラジルの楽器タンボリンなどによって演奏されますので、そのリズムのなかで、1(One)がどれであるのか確認してリズムを取る練習をしてください。

最初は何がなんだかわからないかもしれませんが、何度も聞いているうちに脳が理解してリズムが見えてきますので、その雰囲気を感じて、とにかく音楽に慣れるようにしましょう。

わからない場合は歌い出しが1(One)ですので、そこからリズムをとるようにしてください。

ボサノヴァ誕生の経緯や音楽性に関する理論はどうでもいいことですので、実際のBossa Novaがこのようなリズムで演奏され、歌われる音楽であるということを感性で理解しでください。

なお、ボサノヴァをたどるとSamba(サンバ)につながりますので、ボサノヴァをよく感性に取り込むということはサンバを理解するということにもつながります。

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2011年6月29日水曜日

kimiko Kasai(笠井紀美子) - My Heart Still Waits for You



笠井 紀美子(かさい きみこ、1945年12月15日 - )は京都府出身のジャズシンガーで、同志社女子高校中退後、1964年に上京し、スタンダードナンバーを歌ったり、Fusion(フュージョン)の要素を取り入れるなどしてジャズファンの人気を集めました。

1979年に渡米し、1998年までジャズシンガーとして活躍し、現在はジュエリーデザイナーをされているそうです。

ご主人は、歌手であった故ミニー・リパートンの元夫でプロデューサーのリチャード・ルドルフ氏です。

フュージョン(Fusion, Jazz Fusion)は1960年代後半から現在に至るまでのジャズを基調にロックやファンク、R&B、電子音楽、ワールドミュージックなどを融合(フューズ)させた音楽のジャンルで、時にはクロスオーバーとも、AORとも称されるときもありますが、一般的には、ジャズジャンルから確立されたものの一種に位置づけされています。

ジャズの生命線はなんといってもリズムですので、笠井紀美子の往年の透き通るように抜ける声が衰えたとはいえ、リズムを繊細に捉えたボーカルを聞いてください。

曲は4拍子でドラムスが大変分かりやすいリズムを刻んでいますが、わからないときはキーボードの出だしが1(One)です。

笠井紀美子でもう一曲、1977年にリリースされた名作「Vibration」です。



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2011年6月27日月曜日

B. B. King(ビービーキング)- 3 o'clock blues



B.B.King(ビー・ビー・キング)の「3 o'clock blues」です。

B.B.King(ビー・ビー・キング、本名 Riley B. King 、1925年9月16日 - )は、アメリカ合衆国のブルースギタリストであり、歌手、作曲家でもあります。

1950年代から現在まで常に第一線で活躍してきたカリスマ的な人気を持つ、世界的なブルース界の巨人です。

B.B.King は1925年9月16日にミシシッピ州北西部のイッタベーナのプランテーションに生まれ、子供の頃は農場の小作人として働いてきましたが、その頃からギターを手にし、T-Bone Walker(T-ボーン・ウォーカー)やLonnie Johnson(ロニー・ジョンソン)と言ったギタリストの音楽に影響を受け、さらに Gospel music(ゴスペル音楽)にも影響をうけました。

やがて成長した彼は、テネシー州西端のメンフィスのラジオ局WDIAでDJをするようになり、そのときに番組のスポンサーであった飲料の商品名から「The Pepticon Boy」と名乗っていましたが、後に「Beale Street Blues Boy」と名乗るようになり、略して「Blues Boy」と呼ばれるようになりました。

その「Blues Boy」を略して「B.B.」となったわけです。

その後1949年にレコード・デビューを果たし、1951年末にこの「3 O'clock Blues」のシングルがR&B(リズムアンドブルース)チャートの1位となり、これを契機にその後、数多くのヒット曲を世に送り出すこととなります。

この曲はR&B独特のゆっくりとしたリズムの4拍子ですので、バックのドラムスの音をよく聞いて、どこが1(One)であるか確認してカウントを取るようにしてください。

わからない場合はこの曲も歌い出しが1(One)&ぐらいですので、それを目安にカウントしてください。

どこが1(One)であるのか自分でわかるまで聞いてその感覚をつかんでください。

また、途中でテンポが若干変わって早くなりますが、乗り遅れずにカウントを取る練習をしてください。

音楽を知識として理解するのではなく、感覚あるいは感性として理解することが目的ですので、音楽を聞くときは必ずカウントしながら聞く習慣をつけましょう。

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2011年6月25日土曜日

The Three Tenors(三大テノール) - 1994 - O' sole mio



The Three Tenors(三大テノール)の 左から Domingo Carreras Pavalotti(ドミンゴ、カレーラス、パヴァロッティ)による O'sole mio(オー・ソレ・ミオ)です。

このオペラ歌手であるいわゆる「世界三大テノール」の3人は日本でも大変な人気で、今年に入ってその中の一人のプラシド・ドミンゴが来日して、4月10日に東京・渋谷の NHKホールで公演を行い、東日本大震災の被災地のために 義援金20万ドル(日本円にしておよそ1600万円)を寄付しました。

また、一番年長で人気のあった、イタリアのオペラ歌手ルチアーノ・パヴァロッティ(Luciano Pavarotti、1935年10月12日 - 2007年9月6日)は、膵臓がんを罹患し、手術を受けましたが、2007年9月6日、モデナの自宅にて腎不全により71歳で死去しました。

同年9月8日、モデナの大聖堂でその葬儀が行われ、プローディイタリア首相、アナン前国連事務総長、ボノ(U2)やこのブログでも取り上げたアンドレア・ボチェッリなどの著名人も参列し、市民ら約10万人も集まり弔意を表し、早い死去を惜しみました。

「オー・ソレ・ミオ」(ナポリ語:'O sole mio、私の太陽)は、有名なイタリアのカンツォーネ(ナポリ民謡)で、ギアヴァニ・カプロ作詞、エドゥアルド・ディ・カプア作曲にる1898年の作詞作曲です。

世界中で翻訳され、様々な言語でも歌われますが、通常は原詩原詩のナポリ語で歌われます。

カンツォーネ (Canzone) は、イタリア語では単に「歌」を指す単語ですが、日本国内においては主に19世紀末から20世紀初頭に書かれたイタリアの大衆歌曲、特にナポリのもの(カンツォーネ・ナポレターナ、Canzone napoletana)を指すことが多く、これらはイタリア民謡とよばれることもあります。

しかし、古くより伝承された作者不詳の歌ではなく、近代において専門的な作曲家によって作曲された流行歌であるため、「民謡」と呼ぶのは適切ではないとする意見もあります。

また、この他、1960年代~1970年代に日本で流行したイタリアのポップスもカンツォーネと呼ばれることがあります。

この曲は4拍子ですが、伴奏の打楽器やベース音もなく歌声が中心ですので、カウントが取りにくいと思いますが、歌い出しが1(One)ですので、そこからカウントしてください。

音楽に限らず芸術は知識ではなく感性を開くことが重要です。

そのためには、まずは慣れることが第一ですので、たくさんの曲を聞いて、カウントを取れるようにしてください。

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2011年6月23日木曜日

Andrea Bocelli(アンドレア・ボチェッリ) - Besame Mucho (2006)



ラスベガス湖で行われた Andrea Bocelli(アンドレア・ボチェッリ)のライブから「Besame Mucho(ベサメムーチョ)」です。

Andrea Bocelli(アンドレア・ボチェッリ 、1958年9月22日-)はその甘い歌声で世界中で人気を博すイタリアのテノール歌手です。

ボチェッリは6歳でピアノを始めましたが、12歳の時にサッカーボールを頭に受け脳内出血を起こし失明しました。

その後、視覚障害という大変なハンディキャップを乗り越えて法学博士号を取得し弁護士として活躍していました。

しかし、歌手になる夢は捨てきれずにいたところ、その後、世界的なテノール歌手であるルチアーノ・パヴァロッティとイタリアを代表するロック&ポップス歌手のZucchero(ズッケロ)に見出され1994年に歌手としてデビューしました。

ボチェッリは1994年のサンレモ音楽祭新人部門で優勝し、イタリアン・ポップス、カンツォーネの曲を収録したアルバムを2枚発表した後、「VIAGGIO ITALIANO」というアリアやナポリターナなどを歌ったアルバムを発売し、ヨーロッパ中で大ヒットとなり、世界中の音楽ファンに知られるようになりました。

ご記憶の方もおられると思いますが、ボチェッリは2006年に行われたトリノオリンピックの閉会式で「Because We Believe」を歌ったほか、数々のイベントで歌う国家的な人気歌手でもあります。

曲のBésame mucho(ベサメ・ムーチョ)は、1940年にメキシコの女性コンスエロ・ベラスケス(Consuelo Velázquez)によってスペイン語で16歳の誕生日前に書かれた有名な曲で、競技会では編曲されてルンバの曲としてかかる場合があります。

打楽器と伴奏の演奏をよく聞いて、どこが1(One)であるか確認しましょう。

どうしても、1(One)が確認できない人は、♪ベサメと歌い出すときの「べ」が1(One)ですので、そこからカウントを取る練習をしてください。

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2011年6月18日土曜日

Janis Joplin(ジャニス・ジョプリン) - Summertime (Live Gröna Lund 1969)



ジャニス・ジョプリン(Janis Joplin)の Summertime(サマータイム)です。

サマータイム(Summertime)は、ジョージ・ガーシュウィンが1935年のオペラ『ポーギーとベス』のために作曲したアリアで、作詞はデュポーズ・ヘイワード(DuBose Heyward)です。

もともとはオペラの楽曲であったわけですが、Sarah Vaughan(サラ・ボーン)やElla Fitzgerald(エラ・フィッツジェラルド)などによって歌われ、現在ではジャズのスタンダード・ナンバーとして知られています。

また、さまざまにアレンジされて、ポップス、ロックなど幅広いジャンルでも歌われている人気のある曲です。

ジャニスのこの演奏ではR&B(Rythem&Bruce・リズムアンドブルース)にアレンジされているわけですが、ごくSlowなテンポですのでゆっくりとしたカウントを取ると、リズムが理解できます。

ジャニス・ジョプリン(Janis Joplin、本名: Janis Lyn Joplin、女性、1943年1月19日 - 1970年10月4日)は、アメリカ合衆国テキサス州ポート・アーサー出身のロックシンガーで、魂のこもった圧倒的な歌唱力と特徴のある歌声により、1960年代を代表する歌手として活躍しました。

ロックの歴史を代表するシンガーとして、世界中のロックファン、音楽ファンに、亡くなってから40年を経た現在でも、根強い人気のある歌手です。

Janis Joplinは「ローリング・ストーン(誌)の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」に於いて第28位にランクされています。

Janis Joplinは天才にありがちな繊細で精緻な性格から薬物異存に拍車がかかり、1970年に27歳で夭折しています。

このライブはその前年に行われたものですので、Janis Joplinが歌手として熟成した全盛期の歌声であるわけです。

このゆっくりとしたブルースのリズムをしっかりと聞き取れるようにしてください。

最後にJanis Joplinをスターダムにのし上げた伝説のモントレー・ポップ・フェスティバルの「Ball & Chain」です。



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2011年6月15日水曜日

Aretha Franklin(アレサ・フランクリン) - Think.


Aretha Franklin(アレサ・フランクリン)の「Think」です。

映画「Bruce Brothers」にも出演してこの「Think」を歌い、日本でもおなじみの Soul Singer です。

アレサ・フランクリン(Aretha Franklin、1942年3月25日 - )は、アメリカの女性歌手で、ソウル歌手のサム・クックと共にひときわゴスペル・フィーリングの強い歌唱を持ち味としており、“クイーン・オブ・ソウル”あるいは“レディ・ソウル”の異名を持つソウル歌手です。

1960年代後半の作品群が特に有名で、Otis Ray Redding Jr.(オーティス・レイ・レディング・ジュニア)と共にSouthern Soul(サザン・ソウル)隆盛に寄与し、1987年に、女性アーティスト初のロックの殿堂入りを果たしました。

Southern Soul(サザンソウル)は文字通りアメリカ南部から生まれたSoul Music(ソウルミュージック)で、Gospel Song(ゴスペルソング)やBruce(ブルース)に直結した音楽をいいます。

アレサは「ローリング・ストーン(誌)の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第1位に選ばれています。

つまり、アメリカで最も人気のある歌手であるわけです。

分かりやすく言うと、日本でいえば美空ひばりにあたる歌手です。

また、来日公演が一度も行なわれていない大物アーティストの一人です。

これは、1967年に、Otis Ray Redding Jr.(オーティス・レイ・レディング・ジュニア)が飛行機の墜落により死去したことがきっかけで飛行機恐怖症になり、アレサは海外公演を行わなくなったからです。

この影響により、アレサの公演はバスで移動が出来ない北米以外の国では行なわれておりません。

アレサ・フランクリンはメンフィスの生まれでデトロイト育ち、父親は教会の牧師であり、彼女は幼い頃から父の教会でゴスペルを歌っていました。

代表曲は「Respect」、「Chain Of Fools」、「(You Make Me Feel Like A) Natural Woman」(キャロル・キング)、「I Say A Little Prayer」(バート・バカラック)、「Bridge Over Troubled Water」(邦題:明日にかける橋, サイモン&ガーファンクル)などです。

「Bridge Over Troubled Water」はゴスペルにアレンジされており、特に当時アパルトヘイトで苦しんだ南アフリカでヒットし、教会で賛美歌として歌われるようになりました。

この「Think」はリズムが比較的はっきりしていて、カウントを取りやすい曲ですので、1(One)2(Two)3(Three)4(For)をしっかりと意識して、どこが1なのか、どこが2なのかを確認してカウントするようにしてください。

リズムのカウントはコーチの取ったものに合わせるのではなく、自分で音楽を理解し、3拍子1,2,3,あるいは4拍子1,2,3,4のリズムを確実に認識することが重要です。

ボールルームダンスの技術をどんなに優れたコーチに師事しても、音楽がわからないと全く意味がないということになりますので、とにかく音楽を聞くときはカウントを取ることを癖にしましょう。

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2011年6月12日日曜日

Edith Piaf(エディット・ピアフ)- Non, je ne regrette rien



Edith Piaf(エディット・ピアフ)の「Non, je ne regrette rien(水に流して)」です。

わたしの人生でこれっぽっちも後悔することはないと歌っています。

Édith Piaf(エディット・ピアフ, 1915年12月19日 - 1963年10月11日)は、フランスのシャンソン歌手で、フランスで最も愛されている歌手の一人であり、国民的象徴でもありました。

もちろん、アメリカを始め世界中で最も人気のあるシャンソン歌手のひとりです。

彼女の音楽は傷心的な声を伴った痛切なバラードであり、その悲劇的な生涯を反映していたのが特徴で、この「水に流して Non, je ne regrette rien」 (1960年)の他に「ばら色の人生 La vie en rose」(1946年)、「愛の讃歌 Hymne à l'amour」 (1949年)、「ミロール Milord」 (1959年)などがあります。

ピアフの人生は謎に包まれていますが、映画では貧しい大道芸人の子として生まれ、幼児期に母方の祖母の娼館に引き取られ、3歳から7歳まで角膜炎で目が見えなかったがテレーズへの巡礼で目が治り、その後、貧しい街角の芸人として歌い始め、それをナイトクラブのオーナーにスカウトされそこから、ピアフの歌手としての人生が始まったとされています。

この曲は4拍子で、ゆっくとしたテンポですので、カウントをしっかりと意識しながら聞いてください。

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2011年6月11日土曜日

Connie Francis(コニー・フランシス)ーI will wait for you-



Connie Francis(コニー・フランシス)の「I will wait for you」です。

この曲もテンポがアレンジされて Slow Foxtrot の曲としてかかることがあります。

コニー・フランシス(Connie Francis、1938年12月12日 - )は、アメリカ・ニュージャージー州ニューアーク出身のイタリア系の歌手・女優で、本名Concetta Rosa Maria Franconero(コンチェッタ・ローサ・マリア=フランコネロ)です。

世界各国でヒット曲がカバーされており、日本では「Vacation(ヴァケイション)」や「Pretty Little Baby(可愛いベイビー)」「Too Many Rules(大人になりたい)」などの曲が弘田三枝子や中尾ミエ、伊東ゆかりなどによりカバーされ、ヒットしたことでも知られます。

コニー・フランシスの大変な歌唱力でつい聞き惚れてしまうわけですが、音の取り方の練習の一環ですので、曲を聞くときは必ず、どこが1(One)なのか、どこが2(Tow)なのか確認して、カウントを撮りながら聞く習慣をつけて下さい。

この曲は歌い出しが実際の楽譜ではIf(♪)it(♪)ですが、 Slow Foxtrot のステップに合わせるとIf(1、2) it(3、4) takes(1、2)となります。

このような曲の場合、今まで音楽に無縁の方はカウントを取るのが非常に困難であると思いますが、それを取ろうと思うことで脳が活性化されて、神経細胞がつながり、少しずつわかるようになりますので諦めずにいろいろな音楽を聞いてください。

実際にこのまま原曲でデモが踊られる場合もある人気のある曲です。

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2011年6月10日金曜日

Nina Simone(ニーナ・シモン)- Feelin' Good -



Nina Simone(シーナ・シモン)の「Feeling Good」です。

この曲はさまざにアレンジされて、slowfoxtrot の曲としてかかる場合もあります。

曲を聞くときは必ず拍子に合わせてリズムをカウントしてください。

この曲は4拍子ですので、1,2,3,4のどこが1なのかあるいは2なのか、確認しながら聞いてください。

ニーナ・シモン (Nina Simone、1933年2月21日 - 2003年4月21日)は、アメリカのジャズ歌手・音楽家で、本名は、Eunice Kathleen Waymon(ユニース・キャサリン・ウェイモン)です。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」に於いて第29位にランクされました。

ちなみに「ローリング・ストーン」(Rolling Stone)は音楽や政治、大衆文化を扱う アメリカ合衆国の隔週発行の雑誌です。

ニーナ・シモンは、1933年2月21日に米国ノースカロライナ州に7人兄弟の6番目として生まれ、4歳からピアノを弾き始め、彼女の天才的な才能にほれ込んだ周囲のバックアップを得て、クラシック音楽のトレーニングで有名なジュリアード音楽院に進学します。

しかし、貧しかった家族を助けるため、1954年にはアトランティック・シティのアイリッシュ・バーのオーナーに薦められ歌い始め、やがて名前をニーナと改め、尊敬するフランスの女優、シモーヌ・シニョレに因んで、「ニーナ・シモン」としました。

音楽はジャズに限らずポップスなど幅広いジャンルを取り入れた他、1960年代の黒人公民権運動にも参加するなど精力的な活動を見せました。

2000年を過ぎてからフランスに居を構え、2003年4月21日、フランスのCarry-le-Rouetの自宅で70年の生涯を終えました。

ライブから「Revolution」です。



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